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 エリアマネジメントインタビュー第4回は、歴史ある田園調布(東京都大田区)の住環境を、情熱と高い意識によって守っている社団法人田園調布会の皆様にお話を伺いました。
 
     
     
 

● 大正後期に分譲されてから現在まで、住環境保全に関してどのような変化がありましたか。   

 
 
 
 田園調布は、渋沢栄一が理想的な田園都市をつくろうと、熱意に燃え、財界の方々と一緒につくったまちです。栄一の四男、秀雄は、父親のつくった田園都市株式会社に入社し、初期から田園調布に住み、事業を推進しました。そこに第一生命保険創業者の矢野恒太やその子息一郎らが住み始めました。一郎は、20年以上の長きにわたって田園調布会の会長を務めました。彼らが築き上げた田園都市の理念は、私たち住民に「日本一のまち、田園調布に住んでいる」というプライドを授けました。田園調布会は、「環境の維持」を最大の目的として設立されましたが、由緒ある田園調布の街並みを守るという根本的精神は今も昔と変わっていません。分譲当時からのまちづくりの理想は、昭和57年に当会が制定した「田園調布憲章」や「環境保全の申し合せ」などによって脈々と受け継がれているのです。
田園調布の旧駅舎〔東京都大田区〕
 
 
 
  田園調布では、かつては一区画200坪が最低敷地面積でした。ところが世の中の流れと共に路線価がはねあがり、遺産相続の際、相続税の支払いができずに全部売って出て行ったり、自殺騒ぎなども起こったりしました。敷地を切り売りできるようにするとともに、街並みの保全についても対策を講ずる必要がありました。
 そこで、平成3年に地区計画を大田区が制定するに際し、最低敷地面積を50坪に定めました。相続税を支払うために敷地を全部売って街を出て行く人が増えれば地域は崩壊してしまいます。50坪ならば切り売りして相続税を払っていけるのではないかと考えたのです。
 ところが、「田園調布でも50坪あれば家が建つ」と、50坪という数字が一人歩きしてしまいました。現在のような車社会となってしまいますと、敷地の接道部分を人と車が出入りするところのみが占め、木が一本も無いような家がでてきたのです。ここは風致地区ですから、緑化率を30%確保する必要があるにもかかわらずです。
 

● 塀や生垣にはどのようなルールがあるのですか。 

 

 分譲当初は、大部分が大谷石を1段か2段積んだ生垣でした。戦後、高度成長時代に車が普及するにつれ、「生垣ではうるさい」「外から覗かれるのが嫌だ」という人が増えてきました。それで、古くからの住民でも駅周辺で高い塀を建てるようになってきたのです。田園調布会では、「高い塀はだめですよ」と話し合いで進めてきましたが、「泥棒に入られるのが怖い」といって応じない人もいました。でも、高い塀の中に一旦入ると泥棒は逆に仕事がやりやすいのです。生垣だと中が見えやすいでしょ。刑務所みたいな塀を建てたお宅は、実際泥棒に狙われやすいようです。

 塀は1.2m以下にしましょうと決めましたが、それは紳士協定でしたので、どんどん高い塀を建てるお宅が増えてきました。そこで、接道部分は緑化し、樹木を植えるように地区計画で制限することになりました。昔の田園調布の風景を取り戻したいという声が強まったのです。そうして平成17年12月、新しい地区計画に改定されました。傾斜地の多い特徴あるこのまちならではの環境を、東京都風致地区条例と共に地区計画により守ろうと考えたのです。

 昭和30年くらいまでは、話し合いの場を持つことによって、田園調布の環境を維持することができました。当時から当会に住環境保全を担う環境委員会はありましたが、強力に活動をしていたわけではありませんでした。それが昭和40年代くらいから、言うことを聞いてくださらない住民が増えてきたわけです。塀のことなど「自分の財産について文句を言うな」とおっしゃるようになってきました。権利ばかりおっしゃって、義務は無視しているのですね。開発当時に田園調布に移って来られた方は、理想を持ってやって来られた。空気が綺麗で緑の多いところで子育てしたいと願って住まわれた方が多かった。それが何十年か経ちますと、世の中の価値観が変わってしまいました。「田園調布に家が建つ」という漫才以来、自分の資産を守ることにばかり目が向くようになり、周りと調和するとか緑を守るということを考えない人が増えました。新しく住まわれる方の意識が変わってきたのです。

 
 
   
 
 
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国土交通省 土地・水資源局土地政策課
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